SSブログ

訪ねて楽しい羽生の酒蔵 [関東]

スポンサードリンク




「羽生編」

《蔵元紹介》

銘柄:晴菊





蔵元名:株式会社 東亜酒造





所在地:埼玉県羽生市西4-1-11 





「晴菊」名前の由来:"晴菊"の命名は、晴菊の由来は困民党が中心となった近代史上最大の民衆蜂起・秩父事件にさかのぼります。

明治17年(1884年)11月1日の夕刻、秩父椋神社に農民3000人が集結。負債の延納、雑税の減少等を求めて蜂起した。

困民軍は群馬や長野の各地に転戦したが、組織された政府軍の鎮圧に奔走させられ、蜂起から10日あまりで壊滅。

困民党や農民はバラバラになった。

この時、困民党に食料などを提供し、陰で支援したといわれるのが肥土酒造本家(秩父市吉田町)17代目当主、肥土晴三郎だった。

明治政府も西南戦争に準じる戦争として、有事体制で臨んだ戦闘への支援はどれほどの苦労があったでしょうか。

「晴菊」は、晴三郎の死後、地元への貢献、功績を称え、名の頭文字と故人が好んでいた大輪の菊に因んで付けられました。

創業は寛永二年(1625)です。

株式会社 東亜酒造ホームページより




地元紹介(羽生の見所 )


利根川沿いの羽生のまちは、水利がよく土地も肥え、早くから農耕文化が栄えたところで古い塚や古墳、出土した埴輪はそのことを証明してくれます。

このため羽生の地名は埴輪から転化したものだといわれています。

歴史上、羽生という地名が出てくるのは文明10年(1478年)の太田道灌の手紙に「武州羽生の嶺にたてこもり」と書かれているのが最初です。

その後「羽生城」ができ、その支配する領分を羽生領と呼ぶようになり、「羽生」の地名が広まったと考えられます。徳川家康が江戸に幕府を構えると、江戸を守るかなめとなり、幕府直轄の天領や旗本領が多くなり、領有関係は細かく入り乱れました。

徳川時代の小規模な村々49ヶ村は、明治期に入り合併が繰り返され、明治22年市町村制施行により1町8村が成立しました。

昭和29年9月1日には、羽生町ほか6村が合併し羽生市が誕生、県下16番目、全国で434番目でした。(世帯数—6,604戸、人口3万6,564人)その後、昭和34年4月1日に千代田村を編入し、現在に至っています。
羽生市ホームページより




『立ち寄ってみたい所』

永明寺

永明寺.jpeg
フリー画像からお借りしました






藤まつり

藤まつり.jpeg
フリー画像からお借りしました





葛西堤羽生さくらまつり

葛西堤羽生さくらまつり1.jpeg
フリー画像からお借りしました




葛西堤羽生さくらまつり2.jpeg
フリー画像からお借りしました








埼玉県ホームページ
https://www.pref.saitama.lg.jp/




羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/




羽生市観光協会ホームページ
http://hanyu-kanko.jp/







スポンサードリンク



nice!(0) 

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。